福泉寺と土屋氏

小谷の福泉寺本堂手前左手に昭和47年(1972)に整備された土屋氏二代の板碑が建っています。これは誰の板碑なのか、また、なぜここに建っているのかを検討します。

【推定】

左:土屋重貞

中央:土屋重正


土屋氏系図(関係者のみ)

重治┬重信

  ├重利

  └重成─重正=重貞(重吉?)

重治の祖先は不明です。

福泉寺の土屋氏

福泉寺には3人の土屋氏の痕跡(過去帳、板碑)が残っています。福泉寺に残る痕跡と他の史料とを比較します。

寛政重修諸家譜にしても寛政年間(1789年 - 1801年)に作られたもので、100年以上後の記録であり、正確性を欠きますが、概ね辻褄が合っており、上記系図の土屋氏の過去帳、板碑と考えられます。

重成

  さむ川その昔を語る 第二集 寛政重修諸家譜 断家譜
 氏名  土屋権右衛門 土屋権右衛門重成 土屋権右衛門直為
役職・知行・石高・他   ─ 東照宮、台徳院殿(秀忠)につかえる 1500石、江戸町奉行
没年 慶長16(1611) 713 慶長16(1611) 7月死す、年48 慶長17年(1612)1118日病没
葬地   ─   ─   ─
法名 月□浄江居士   ─ 天応宗養禅定門
その他   ─ 土屋惣兵衛重治が三男   ─

重正

  寒川町史11 さむ川その昔を語る 第二集 寛政重修諸家譜 断家譜
氏名   土屋権十郎 土屋権十郎 土屋権十郎重正 土屋権十郎某
役職・知行・石高・他   ─   ─ 台徳院殿(秀忠)に仕える、西城御小姓組の番工となり、寛永10614日より進物のことを役し 台徳院様(秀忠)小姓組井上主計(正就)頭組、寛永9115日進物番
没年 寛永12(1635) 1025 寛永12(1635) 1025 某年 寛永10(1633) 1025日病没
葬地   ─   ─   ─ 浅草本願寺地中長敬寺
法名   ─   ─   ─ 釈宗和

重貞(重吉?)

  寒川町史11 さむ川その昔を語る 第二集 寛政重修諸家譜 断家譜
氏名   土屋重貞 土屋権十郎重正 土屋権十郎重吉 土屋権十郎某
役職・知行・石高・他  ─  ─ 寛永13年遺跡を継、采地1550石を知行、寛永19620日御小姓組の番士、延宝31021日三崎の奉行となる 寛永10(1633)跡目1565石、後小姓組、延宝3年(1675)1021日三崎奉行
没年 延宝4(1676)正月17 延宝4(1676)正月17 延宝4(1676)正月11 延宝4(1676)正月11
葬地  ─  ─  ─ 浅草長敬寺
法名 相応院殿宗春居士 相応院殿宗春居士  ─ 相応院釈宗春
その他  ─  ─ 実は加藤甚右衛門正次が二男、重正が養子となる  ─

寛政重修諸家譜(寛政年間:1789年~)には「重吉」と書かれていますが、板碑(墓石)(延宝4年:1676年)には「重貞」と彫られているように見えます。この板碑がいつ作られたのか不明ですが、板碑に彫られた年(1676年)に板碑が作られたとしたら、板碑の方が古いので、「重貞」が正しく、寛政重修諸家譜が間違っているかもしれません。寛政重修諸家譜は100年以上後に書かれたものなので、間違いがあっても不思議ではありません。

土屋氏が小谷を知行した可能性

・土屋権十郎重吉が延宝4年(1676)に死んだ後、嗣子(しし)なくお家断絶(寛政重修諸家譜)。
・小谷村、延宝5年(1677)坪井甚之丞・成瀬五左衛門等検知す、今{「新編相模国風土記稿」は天保12年(1841年)成立}森川鎌三郎、高木富太郎一陽、柳生主膳正久道等知行す(新編相模国風土記稿巻之六十三)

上記を勘案すると、延宝4年(1676) 土屋権十郎重吉の死亡に伴い、小谷村の領地は幕府に召し上げられ、それに伴い延宝5年(1677)検知が行われたと考えられます。

ということは、延宝4年(1676)まで、小谷村は土屋家の領地であり、福泉寺の過去帳に記載があったり、板碑があっても不思議ではありません。

七面堂九齊のしちめんどくさい話★とんだりはねたり」によれば、『中根・筧・仙石・小笠原・大原・土屋・天野・石川・鈴木・加藤などの旗本と、近江三上1万2千石遠藤家の「旧遠藤・東家累代之墓」明治11年遠藤を東に改姓した大名1家が(浅草東本願寺子院浄土真宗長敬寺を)菩提寺としたが、全て合祀墓となっている。』そうです。従って、土屋家の墓(板碑)が小谷にあっても(移されたとしても)不自然ではありません。

最終更新日:2017.10.5