遠山氏

遠山氏は萩園村(現茅ヶ崎市)の領主でした。萩園村遠山氏の初代は安吉です(安吉の先祖は確認できていません)。

遠山安吉は、小田原開城{天正18年(1590)7月16日}の後、天正18年(1590)8月、徳川家康と共に関東へ入国し、翌天正19年(1591)9月9日、萩園村(茅ヶ崎市)に知行地として330石を賜りました。{安吉の次男安則は上土棚村(かみつちだなむら)(綾瀬市)を知行し、累代の墓(綾瀬市指定文化財)が蓮光寺にあります。}
3代目遠山安重の時{寛永10年(1633) 2月7日}、常陸国新治(にいはり)郡内に200石加領され、530石を知行するようになりました。以降、幕末まで知行しました(*3)。
遠山氏の屋敷は、日蓮宗常顕寺の近く、「トノヤシキ」と呼ばれた辺りにありました(*4)。
田端村生往寺へ葬られたのは、萩園村に浄土宗の寺がなかったためと思われます(*2)。

生往寺に初代から九代までの墓石碑が残っています。

生往寺遠山氏累代の墓石碑
生往寺遠山氏累代の墓石碑
生年 没年 法名 葬地 注釈
新八郎安吉(やすよし) 永正16年(1519)(*2) 文禄2年(1593) 67歳(*1) 一信(*1){高昌院殿帰山華厳一心居士(*2)} 田端 生往寺 *1と*2で法名が若干異なる。墓石碑は一心。※1
2 平太夫安政 (1546) 慶長5年(1600) 54歳 徳{得(*6)}松院殿利月宗心居士(*2) 田端 生往寺 過去帳:得松院殿理月宗心居士
3 平太夫安重 (1579) 正保4年(1647) 68歳 法勝院殿月窓浄心大禅定門 田端 生往寺 ※2
4 新八郎安次{平太夫安次(*6)} (1609) 貞享3年(1686) 77歳 松誓院殿本誉帰西居士 田端 生往寺  
5 平太夫安誠(やすのぶ) (1651) 享保19年(1734) 83歳 浄繁(*1){律応院殿昌誉妙槃居士(*2)} 赤坂 浄土寺 *1と*2で法名が異なる。※3
6 新八郎貫慶(つらよし) (1679) 宝暦4年(1754) 75歳{73歳(*6)} 源徳院殿香誉銕薫居士 田端 生往寺  
7 京八郎兼忠(かねただ) (1715) 宝暦10年(1760) 45歳 徹照(*1){顕曜院普吟嶺徹昭居士(*2)} 赤坂 浄土寺 生往寺にも墓碑がある(*2)。*1と*2で法名が若干異なる。
8 新八郎安縄(やすのり) 寛政11年(1798) 徳寿院殿松誉順譲居士

田端 生往寺

 
9 孝之助(後新八郎)安親 文化2年(1805) 実智院殿相誉是心居士 赤坂  浄土寺 生往寺にも墓碑がある(*2)。※3-5
10 孝之助安根 弘化3年(1846) 一乗院殿真誉法載了運居士 赤坂 浄土寺 ※4 生往寺過去帳に記載あり。
11 剛次郎恵安 文久3年(1863) 春光院殿照誉銕山道肝居士 静岡県藤枝市岡部町宥禅寺(*2) ※5
             
柴田東庵 正徳元年(1711) 本誉浄法信士 田端 生往寺 ※6(*7)
萩園領主遠山安吉系図
萩園領主遠山安吉系図(薄緑は葬地または墓碑が田端生往寺)

補足説明

※1:

「徳川家康文書の研究」中巻 中村孝也 日本学術振興会 S34.3.25 p84
「徳川家康文書の研究」中巻 中村孝也 日本学術振興会 S34.3.25 p84

初代、新八郎安吉。松平廣忠(家康の父)に仕える(*1)。その後、家康に仕え、天正18年(1590)8月、家康と共に関東入国。天正19年(1591)9月9日、萩園村に知行地として330石賜る。

 *2(萩園のうつりかわり)では「松平清康(家康の祖父)に仕えた。死後家康に仕えた。」と書いてあるが、清康が死んだ時(1535)、家康(1543~)はまだ生まれていない。清康に仕えたとしても廣忠にも仕えたのではないか?

生往寺の過去帳では元禄2年に記載あり(*9も元禄2年)。安吉の没年{文禄2年(1593)}の「文」と「元」を書き間違えたと思われる。墓石碑は「文禄」である。

次男の安則は、上土棚村(綾瀬市)に知行地を賜る。浄土宗蓮光寺の遠山氏累代の墓は綾瀬市指定文化財。

蓮光寺 綾瀬市
蓮光寺 綾瀬市
遠山氏累代の墓碑群 蓮光寺
遠山氏累代の墓碑群 蓮光寺

遠山安則始め累代の墓 蓮光寺
遠山安則始め累代の墓 蓮光寺
遠山安次の墓 蓮光寺
遠山安次の墓 蓮光寺

※2:

第3代、平太夫安重、寛永10年2月7日、常陸国新治(にいはり)郡内に200石加えられ、計530石を知行す。(*1)

※3:

第5代、平太夫安誠、萩園十二天社勧請(かんじょう)(*2*5*6)。享保2年(1717)9月、満福寺、請勧により再建(*9)。 

茅ヶ崎市 萩園 十二天社 (十二天神社)
茅ヶ崎市 萩園 十二天社 (十二天神社)
茅ヶ崎市萩園、満福寺
茅ヶ崎市萩園、満福寺

※3-5:

第9代、孝之助(後新八郎)安親、役職、小普請森川織部支配十一番、寺、生往寺または赤坂浄土寺、屋敷、拝領屋敷二所、四谷伝馬町三丁目南横町住、芝三田聖坂下、禄高、530石(*10)。

※4:

第10代、孝之助安根、*10(江戸幕府旗本人名事典)に禄高、530石以外の記載なし(屋敷も記載なし)。

新編相模国風土記稿{天保12年(1841)成立}、萩園村の項に「遠山孝之助知行」の記載あり。「寒川町史10 別編寺院」p381.資料番号26 弘化2年(1845)7月「生往寺新小什物帳」「江戸壇方」「御旗本 遠山孝之助殿」とを考え合わせると、このころまで、萩園村遠山家は生往寺の檀家であったことが伺える。
(注:檀方(だんぽう)=檀家。檀徒。)

※5:

第11代、剛次郎恵安、詳細不明。萩園村常顕寺に位牌が安置されている。静岡県藤枝市岡部町に宥禅寺という寺は実在しない(*2)。

※6:

柴田東庵、遠山氏おかかえ医師。ゲンジョウ島に住む。(*7)  生往寺過去帳では、「本誉浄玄信士 柴田常□」となっている。

※7:

萩園村遠山家初代領主安吉系図

*2「萩園のうつりかわり」(浅田家蔵遠山家系譜)によると、遠山景朝から安吉までの系図は右図のようになっている。

*1(寛政重修諸家譜)では、安吉以前の系図は不明である。*1では、景吉の系図は、

遠山景吉系図
遠山景吉系図

となっている。*2では、この景吉を安吉だと言っているが、この景吉は宝永7年(1710)9月14日81歳で死んでおり、法名、日悟、台東区下谷町1-17本光寺に葬られたことになっている。(現在、下谷に本光寺というお寺はない。)

また、景吉の父景重は寛文8年(1668)谷中の南禅寺に葬られている(現在、谷中に南禅寺というお寺はない)。安吉が葬られたのは1593年であり、年代的にも合わない。

歴史年表

和暦 西暦 事項
嘉暦元年以前  ~1326 萩園村(茅ヶ崎市)日蓮宗常顕寺建立。[開山日澄{嘉暦元年(1326)卒}*5]
天正18年 1590 7月16日、後北条氏滅びる。小田原城開城。
8月、徳川家康関東入国。遠山安吉も従う。
大久保忠世、4万5千石で小田原城主となる。
天正19年 1591 遠山安吉、萩園村(茅ヶ崎市)に知行地330石を賜る。
文禄2年 1593 遠山安吉没。生往寺に葬る。
文禄3年 1594 遠山安則(やすのり:安吉の次男)上土棚村(綾瀬市)蓮光寺(浄土宗)創建。
慶長元年 1596 大森泰次、生往寺建立。
慶長3年 1598 豊臣秀吉没。
慶長5年 1600 関ケ原の戦い。
慶長15年 1610 大森(菊地)泰次没。生往寺に葬る。
寛永10年 1633 遠山安重、常陸国新治(にいはり)郡内に200石加領。計530石となる。

遠山氏関連の地(萩園・田端)

殿屋敷の道 萩園 茅ヶ崎
殿屋敷の道 萩園 茅ヶ崎

下地図「トノヤシキ」で示した場所に遠山氏の屋敷があったと伝わる(*8)。また、トノヤシキへ至る道は「殿屋敷の道」と呼ばれ、敵の侵入を防ぐため、迷路のようになっていた(*11)。

遠山氏ゆかりの地 (生往寺、満福寺、十二天神社、トノヤシキ、殿屋敷の道)
遠山氏ゆかりの地 (生往寺、満福寺、十二天神社、トノヤシキ、殿屋敷の道)

出典

*1:「寛政重修諸家譜」

*2:「萩園のうつりかわり」萩園郷土史勉強会 平成5.5.31

*3:「茅ヶ崎市史 4 通史編」 昭和56年3月31日 p186

*4:「茅ヶ崎市文化資料館ブックレット 2 ちがさき村ごと歴史散歩」

*5:「新編相模国風土記稿」

*6:「茅ヶ崎市研究」第9号 p90 「茅ヶ崎地域における近世の領主たち(一)」神崎彰利 S60.3

*7:「郷土ちがさき」第30号 p5「徳川時代の医師」川添隆行 S56.1.1

*8:「萩園の地名」萩園郷土史勉強会 S57.6.1

*9:「郷土茅ヶ崎」上巻 茅ヶ崎市教育委員会 S48.3.1 伝説史話はぎその 鈴木松風郎

*10:「江戸幕府旗本人名事典」第2巻 石井良助監修 原書房  1989.8.30 

*11:「文化資料館ブックレット1 あのみちこのみち歴史みち」

2017.12.19 発行

2019.11.15 更新